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城南村田、70年のあゆみ
Jonan MUrata Histroy

長くやっていると、いろいろあるものです。城南村田の歴史にも、いろいろありました。笑えることも、笑えないこともありましたが、ともあれおもしろくやっていくのが城南村田流です。

山梨出身の青沼敏郎が、品川区にて洋紙問屋を創業。個人事業主として地盤を築く。 実家は和紙の生産地で和紙の問屋を営んでおり、門前の小僧だった敏郎だが、7人兄弟の末の方だったため継ぐ由もなく。戦後上京し、しばらくは警察官として生計を立てていたし、和紙と洋紙では使い道も異なるし、この時期は、「紙を知らない紙問屋」とあだ名される。
バブル景気や雑誌全盛期を経験。この時期までは、景気の上昇に比例して、また、広告需要と連動して、会社も右肩上がり。
現社長の回想 1970年代、城南洋紙店は、昭和の名だたる作家が編集長を務めた伝説の月刊誌『面白半分』(初代編集長は吉行淳之介)を支援していました。社名も、人も、事業も、大きく変わった現在の城南村田ですが、「面白くてタメにならない」をコンセプトにしたこの雑誌の自由な精神は、いまもDNAとして受け継がれています。
事業承継に苦慮していた、真空成形金型の(株)トーマックをM&A。時代の変化の中、紙でやっていくことに限界を感じていた一方で、ずっと「紙屋」を自認してきた会社が、紙から離れた新規事業を立ち上げるハードルは、特に従業員の意識面で高かった。トーマックを子会社にすることによって、同社の設備や従業員ごと引き受け、プラスチックという異分野に参入、事業を広げることができた。この経験は後年まで活きる。
(株)ムラタ洋紙店の営業権を取得し、取り扱う紙類の幅も広げる。社名を株式会社城南村田に改称。
いわゆるコロナ禍で、城南村田製のプラスチックトレイが大量に使用されていた、大型テーマパークのお菓子への需要が激減する。環境面への意識の高まりから、いずれはそうなるだろうと考えていた製品の先細りが早まったと考えた青沼隆宏は、次なる手として、ソフビの製造に本格参入を決める。それまでも、一部手がけていたソフビのフィギュアには、ローテク×サブカルの可能性を感じていたためだった。
現社長の回想 衰退しそうな業種は、大きなことがあると一気に衰退を加速させるものだと、リーマンショックや東日本大震災の経験が教えてくれたんですね。コロナ禍では、本格的な衰退の前に先手を打とうと決断しました。それに、「コロナで…」と言えば、大概言い訳が立つなと(笑)。ソフビへの転換も、長々と理由を説明せずとも納得してもらいやすくなりましたし、社長である私の北海道と東京の二拠点生活も、コロナでリモートワークが進む世の中の流れで自然と受け入れられました。
株式会社城南洋紙店の誕生。青沼繁汎が二代目の社長に就任。
アメリカで大手会計事務所に勤務していた青沼隆宏現社長のもとに、監査役であった母親より連絡が入る。どうやら家業がピンチに陥っているらしい。送ってもらった会計資料を確認すると「まずかった」。
隆宏が帰国。ここから1年間、会社の小部屋にこもり、立て直しの対策を打つべく10年分の決算書を徹底分析。数字から浮かぶ会社の体質は、ことごとく「まずかった」。
年始早々、売上の半分を占める取引先が不渡りを出す。隆宏が前社長に初めてされた“折り入った話”は「もうダメだ」だった。「俺がなんとかする」と答えた。
会社は、隆宏の父親が社長で、二人の叔父が専務と常務を務めていた。しかしこの叔父らによる放漫経営が、とにかく「まずかった」。隆宏はすぐさま再建案を作り、主要仕入れ先と掛け合い、自らが社長に就任することを条件に支援を取り付けることで急場をしのいだ。会計事務所出身で、数字ベースの会話ができることが仕入れ先の審査部長に認められてのことだった。しかし叔父らに退任してもらうことには苦労した。池井戸潤のドラマでしか見ないような修羅場もあった。
その後の2年間で、青沼隆宏社長の再建案は計画通りに進み、銀行の信頼を得る。
現社長の回想 アメリカからの帰国を「もったいない」という人もいましたが、十数億の会社を再建しても、潰しても、どちらも弱冠32歳ではできない体験になるだろうと、家業を選びました。もともと経営者志向はありましたし、世界中に何万と在籍する社員の一人でい続けるより、おもしろそうだなと思ったんです。
紙卸売事業を譲渡し、主力を真空成形のプラスチックに転換。贈答用のクッキーなどの缶や外箱にセットされるプラスチックトレイを金型から一貫製造する。
札幌市の(有)スズキ工業所をM&A。鉄道関連部品でインフラを、ホタテ漁の漁具で第一次産業を、鉄工業で支える事業を承継。これに伴い、同社の社長を兼ねる青沼隆宏の北海道、東京二拠点生活がスタート。
埼玉県川口市の(有)大樹をM&A。精密抜型の製作を得意とする、匠のものづくりを承継。城南村田の社員であった浅井利晃が社長に就任。
北海道石狩市では(株)ワイエム・スチールをM&A。雪国ならではの防雪柵を手がける高い溶接技術に感動。
ソフビ成形工場UCHOTEN GACTORYをオープン。フィギュアなどの企画を手がける子会社、株式会社GUTSY TOY を設立、青沼純子が社長に就任。北海道では(有)スズキ工業所と(株)ワイエム・スチールを合併、株式会社YMスチールスズキとし、インフラと一次産業を支える鉄工業に。
ここに、ローテク×サブカルで、世界で勝負できるグループを目指す株式会社城南村田ホールディングスが誕生。 『ワンダーフェスティバル※2024冬』にGUTSY TOYが出展。外国からの来場者も多く、国内はもちろん、海外のマーケットの可能性を感じた。スタッフも、自分たちが手がけるものが海を越えていくことに、夢を感じてくれているとうれしい。

※キャラクターのフィギュアなどが並び、5万人の入場者を記録する一大イベントで、即売を含む展示会。

各社の代表が語っています。よろしければあわせてお読みください。

「変化を恐れず、挑戦をやめない」城南村田ホールディングス 「多様なメンバー、自由な発想で、GUTSYに」GUTSY TOY 「社長も社員も、会社と共に成長したい」大樹